日本の国宝に認定されているお城は犬山城、彦根城、姫路城、松江城と、そして松本城もその1つです。
私は松本城の通訳ボランティアに憧れて、お城の歴史について勉強をはじめました。英語も片言なのに無謀な挑戦です(汗)
その昔、戦国時代の末期ころから江戸時代初期にかけて、3000ほどの天守のあるお城が作られました。しかしそのほとんどが消失し、今残っているのは12城だけです。
その中で五重六階天守のあるお城は松本城と姫路城だけです。しかも松本城のほうが古く、日本で最古の五重六階天守のお城ということなんです!
その松本城にはなんと歴代城主が23人もいたのです!なんかチェーン店の店長みたいによく変わったんですね。
この23人はどんな城主だったのでしょうか?
そこで今回松本城の歴史と合わせて、23人の城主たちについて調べてみることにしました。
参考にしてみてください。
Contents
松本城の歴史
まずは簡単ではありますが、松本城の歴史について解説していきますね。
松本は昔は深志と呼ばれていました。松本城がつくられる前は、もともと深志城があり、小笠原氏が守っていました。
ところが武田信玄に攻め込まれ奪われてしまいました。
その武田氏は織田信長によって滅ぼされ、木曽義昌が深志城を治めるようになります。
ところが今度は織田信長が本能寺の変で明智光秀に殺されてしまうと、小笠原氏が再び深志城を奪い返したのでした。このとき「深志」の地名から「松本」に変わりました。
豊臣秀吉が天下統一を果たすと、小笠原氏は関東に移され、松本は石川数正に与えられました。
1590年に松本の藩主となった石川数正は天守の建築にとりかかろうとしました。ところが朝鮮出兵の命を受け、九州に赴いたまま病で亡くなってしまったのです。
そしてその父の遺志を継いで、息子の康長が1593年から1594年にかけて天守、乾子天守(いぬいこてんしゅ)、渡櫓(わたりやぐら)の3棟を完成させました。
その後辰巳附櫓(たつみつけやぐら)と月見櫓(つきみやぐら)は松平直正が城主のときにつくられました。
松本城は石川氏・小笠原氏・戸田氏・松平氏・堀田氏・水野氏・そしてまた戸田氏と城主が何度もかわりました。270年の間に23人もいました。
松本城を治めた城主たちはどんな人たちだったのでしょう?
次に歴代の城主についてお伝えしていきますね。
23人の城主たち
それでは歴代の城主を通してもう少し詳しく松本城の歴史についてもみていきましょう。
松本城は石川氏→小笠原氏→戸田氏→松平氏→堀田氏→水野氏→戸田氏の順に、23人の藩主が城主となりました。
表にまとめてみると、こんな感じです。
城 主 家 | 城 主 名 | 城主期間 |
石川氏 (23年間) | 数正(かずまさ) 康長(やすなが) | 1590~92年1592~1613年 |
小笠原氏 (4年間) | 秀政(ひでまさ) 忠真(ただざね) | 1613~15年1615~17年 |
戸田氏 (16年間) | 康長(やすなが) 康直(やすなお) | 1617~32年1632~33年 |
松平氏 (5年間) | 直政(なおまさ) | 1633~38年 |
堀田氏 (4年間) | 正盛(まさもり) | 1638~42年 |
水野氏 (83年間) | 忠清(ただきよ) 忠職(ただもと) 忠直(ただなお) 忠周(ただちか) 忠幹(ただもと) 忠恒(ただつね) | 1642~47年1647~68年1668~1713年1713~18年1718~23年1723~25年 |
幕府直轄 | 1725~26年 | |
戸田氏 (142年) | 光慈(みつちか) 光雄(みつお) 光徳(みつやす) 光和(みつまさ) 光悌(みつよし) 光行(みつゆき) 光年(みつつら) 光庸(みつつね) 光則(みつひさ) | 1726~32年1732~56年1756~59年1759~74年1774~86年1786~1800年1800~37年1837~45年1845~71年 |
石川氏(1590〜1613年)
最初は石川氏で、数正(かずまさ)と康長(やすなが)の2人が城主となりました。
先ほども触れましたが、1590年に石川数正は豊臣秀吉の命令で松本の藩主となり、翌年から松本城の築城を手がけました。
ですが数正は出兵中に病死してしまい、息子の康長に代が替わって、1593年から天守の建築は急ピッチで進められ、天守・乾子天守・渡櫓が完成しました。
康長は天守を完成させ、更に本丸御殿(ほんまるごてん)や二の丸御殿(にのまるごてん)もつくり大きな働きをしました。
ところが1613年に家康の怒りを買い領地を取り上げられ、九州に流されてしまいました。
石川数正といえば、「真田丸」にも登場していましたよね。ドラマの中では真田信尹(さなだ のぶただ)にそそのかされて家康を裏切ってしまいます。
でもこれはドラマ用の作り話で、実際のところなぜ数正が家康を裏切ったのか理由はよくわかってないのだそうです。
小笠原氏(1613〜1617年)
小笠原氏のときは、秀政(ひでまさ)と忠真(ただざね)が城主となりました。
深志城のときも城主だった小笠原氏が再び松本に戻ってきました。今の深志神社に天満宮を移したり、城下町の整備に勢力的に取り組みました。
ところが1615年に秀政と息子の忠脩(ただなが)は大阪夏の陣で戦死してしまいます。
その跡を二男の忠真が引き継ぎましたが、1617年には播磨国明石(はりまのくにあかし)、現在の兵庫県明石市に移動になりました。
松本城では【国宝松本城おもてなし隊】が出迎えてくれます。
小笠原秀政公もその1人で、ご正室の登久姫様(とくひめさま)のおふたりに会えるかもしれませんよ♪
松本城に登久姫の居る日は私も居る故宜しゅう♬ https://t.co/oyE02htEU0
— 小笠原秀政@国宝松本城おもてなし隊 (@hidemasa_oga) 2017年7月20日
7.17 松本城にておもてなし中の
小笠原秀政公と登久姫さま2
本日も、たいへんな暑さの中でのおもてなしでした…お疲れ様でしたm(__)m#国宝松本城おもてなし隊 #松本城 pic.twitter.com/XjlBF81E8D— hidedon (@nai_tiyan) 2017年7月17日
戸田氏(1617〜1633年)
戸田氏は2回城主となりました。1回目は康長(やすなが)と康直(やすなお)が城主となりました。
康長は城の北部に武家の住宅地を広げたり、領内の新たな支配の仕組みをつくりました。
戸田氏も1633年に播磨国明石に移動となりました。
戸田康長公も【国宝松本城おもてなし隊】の1人です!
久しぶりの呟きじゃ!7月10日より再び松本城下に戻って参ったが、今年の夏はいつもとは違い蒸しておって過ごしづらいのぅ…
今日も城におったが一日で日に焼けてしもうたわ(-_-;)兎にも角にも皆々様方、再び宜しくお願いしますぞ! pic.twitter.com/TzRt219aRg— 戸田康長@国宝松本城おもてなし隊 (@yasunaga_toda) 2017年7月12日
松平氏(1633〜1638年)
松平氏は直政(なおまさ)1代のみでした。直政は徳川家康の孫で官位の高い大名でした。
直政のときは、城や城下町の整備に力を入れたり、辰巳附櫓と月見櫓をつくりました。
将軍家光が善光寺参りの帰りに松本に来ることになり、将軍をもてなすために辰巳附櫓と月見櫓はつくられたのですが、家光は結局松本に来ることはなかったです。
松平氏は1638年に出雲国松江(いずものくにまつえ)、現在の島根県松江市に移動になりました。
堀田氏(1638〜1642年)
堀田氏も正盛(まさもり)1代のみでした。正盛は将軍家光の信頼が厚く、国の政治にも関わっていました。
松本では領内の生産高や人口、牛や馬の数を把握することつとめたり、米蔵をつくったりしましたが、一度も松本に来ることはありませんでした。
正盛は4年で下総国佐倉(しもうさのくにさくら)、現在の千葉県佐倉市に移動になり、家光が亡くなると、後をおい切腹してしまいました。
水野氏(1642〜1725年)
今までは城主をつとめた藩が次々かわりましたが、次の水野氏は役80年間、最後の戸田氏は役140年間続きました。
水野氏は、忠清(ただきよ)、忠職(ただもと)、忠直(ただなお)、忠周(ただちか)、忠幹(ただもと)、忠恒(ただつね)の6人が城主となりました。
2人目の忠職のとき、領地内の田畑など土地の面積を調べ、以降の土地台帳の基本となるものをつくりました。
3人目の忠直のとき、大きな百姓一揆が起きました。貞享騒動(じょうきょうそうどう)といいます。この一揆は多田加助(ただかすけ)という人が中心となったため、加助騒動(かすけそうどう)ともいわれています。
松本城の伝説その1
多田加助ははりつけにされ処刑されたのですが、処刑される直前に、農民たちの年貢を減らすという約束の書状が没収されたことを知りました。
すると加助は「2斗5升、2斗5升」(にとごしょう)と怒りの声で叫び、天守をグッと睨みつけたとたん、天守がものすごい音をたてて西に傾いたという伝説があります。
実際に天守は傾いていて明治30年代に傾きを直す工事が行われました。これは天守を支える柱が腐っていたことが原因でした。
5人目の忠幹は松本の地理や歴史の本をつくりました。
そして6人目の忠恒のとき、江戸城で刃傷事件を起こしてしまいました。これを「松本大変(まつもとたいへん)」といいます。
このため水野氏は改易(かいえき)といって、大名の身分や領地、屋敷などを没収されてしまいました。水野氏の時代は終わりとなったのでした。
「殿中でござる!殿中でござる!」っやつですよね。
忠恒は遊んでばかりいてちゃんと藩政をしなかった城主でした。
刃傷事件を起こしたとき、江戸城に結婚の報告に出かけていって、他の大名に切りつけてしまったのだそうです。
なんでそんな幸せなはずのときに… 、という感じですね。
でも後に水野氏は大名に返り咲いたのだそうです。よかったですね!
水野忠清公も【国宝松本城おもてなし隊】に出陣してます!
おはようさんじゃ!
そして遅ればせながらあけましておめでとさんじゃ☀(笑)
昨年のおもてなし隊の“しんがり”を務めた後、しばらく城を他の隊士に任せておったのじゃが、本日と明日、出陣いたす!水野忠清、本年最初の出陣、熱く参るぞ👊 pic.twitter.com/z2gXJr81wF
— 水野忠清@国宝松本城おもてなし隊 (@tadakiyo_mizuno) 2017年1月12日
戸田氏(1726〜1868年)
水野氏の後、しばらくは幕府が直接松本を治めました。
その後再び戸田氏が松本城の城主となりました。戸田氏は明治維新をむかえるまでの役140年間城主をつとめました。
城主は9人で、光慈(みつちか)、光雄(みつお)、光徳(みつやす)、光和(みつまさ)、光悌(みつよし)、光行(みつゆき)、光年(みつつら)、光庸(みつつね)、光則(みつひさ)がつとめました。
戸田氏は1人目の光慈は「朱子学」に基づき弱者を助けたり、5人目の光悌のとき起きた大飢饉には藩から籾(もみ)を出して備えたり、領民から慕われた城主でした。
1727年、戸田氏が城主になった翌年に本丸御殿が火事で全焼してしまいました。
本丸御殿は藩主(城主)が日常生活をするところですが、財政難のため再建することはできず、二の丸にあった古山地御殿(こさんじごてん)を拡張して生活や政治の場としました。
松本城伝説その2
戸田氏が1回目に城主となって初めて迎えた新年正月26日の夜のこと、川井八郎三郎という武士が本丸御殿で城の見張り番をしていました。
すると赤い袴の美しいお姫様が現れました。このお姫様は二十六夜様(にじゅうろくやさま)を祭ると城は栄えると言うと、天守の上のほうに消えてしまいました。
このことを殿様の康長に伝え、それから毎月26日には欠かさずお供えをしてお祭りしました。
本丸御殿の火事のとき、天守が焼けなかったのはこの二十六夜様のご加護のおかげと伝えられています。
天守の最上階に行って天井を見上げると、二十六夜神がお祭りされています。もし行かれたらお見逃しなく!
1793年、6人目の光行は藩の武士の子供のために崇教館(そうきょうかん)という学校をつくりました。ここでは明治維新後に松本の教育界をになった人々などが学びました。
やがて時代は変わり、1869年版籍奉還(はんせきほうかん)といって、藩の領地と領民を天皇に返還するよう命令が出され、最後の城主の光則は藩知事となります。
そして1871年には廃藩置県(はいはんちけん)といって藩を廃止して県となりました。松本は松本県となり、その後筑摩県(ちくまけん)と名前が変わり、光則は東京に行きました。
光則が松本を去るとき、旧藩士や松本の人々は光則との別れをとても惜しんだのだそうです。
松本城は櫓(やぐら)・堀(ほり)・太鼓門(たいこもん)などが取り壊され、武士の時代は終わりとなりました。
取り壊しの危機を免れた松本城
明治以降松本城は天守以外は次々壊され天守も売りに出され、いづれは取り壊されることになりました。
これを知った下横田町という地区で副戸長をしていた市川量造(いちかわりょうぞう)はなんとか天守を残そうと、天守を会場にして博覧会を開きました。
天守を残す大切さを人々に伝え、寄付を募ってお金を集め、松本城天守を買い戻すことができました。
松本城は6藩23人の城主によって治められたということです。
時代は変わり、明治に入ってから各地では「廃城令(はいじょうれい)」で取り壊されてしまったお城もたくさんありました。
その中で松本城は市民によって守られたんですね。たった12城しか残されなかったのですからとても貴重です。
そして最後にもう1つ松本城の特徴についてもまとめてみたいと思います。
松本城の特徴と現在
松本城が黒いのは秀吉側の城としてつくられたことが大きな理由です。家康を見張り、いざ戦いになったとき役立つよう松本城はつくられました。
連結複合式天守
松本城は戦国時代の終わりごろに天守・渡櫓・乾子天守がにつくられました。天守と子天守が渡櫓で連結している天守を連結式天守(れんけつしきてんしゅ)といいます。
戦いに備えてつくられたので、石落(いしおとし)や狭間(さま)という鉄砲を撃ったり、弓を射るための穴がたくさんあります。
それに対して辰巳附櫓と月見櫓は後に平和な時代になってからつくられたので、戦いのための備えはありません。ここは天守に櫓がくっついてまとまっている状態で複合式天守(ふくごうしきてんしゅ)といいます。
この2つを合わせてもつ松本城天守は連結複合式天守(れんけつふくごうしきてんしゅ)と呼ばれています。
鉄砲戦に備えた城
松本城がつくられた当時は、火縄銃による鉄砲戦が戦いの主な武器でした。
そのため城の壁の厚さは30cm近くもあり、鉄砲の弾が当たっても貫通しないようにつくられているのです。
また外からねらわれないため窓は極力少なく、その少ない窓も閉めると壁になるよう工夫されています。
このように松本城は戦いに備えてつくられましたが、一度も戦いに使われることはありませんでした。
ところで松本城は五重六階天守ですが、これは外から見ると5階建て、でも中に入ると6階建てになっています。3階は屋根に隠れて外からは見えないようにつくられています。
これも戦いに備えた工夫の1つなのです。
松本城の現在
松本城は1936年に国宝に指定され、昭和の大修理を経て、1950年に国宝に再指定されました。
そして今は世界文化遺産登録に向けての取り組みがされています。江戸時代の終わりころの松本城の姿を目指し、復元計画が進められているのです。
松本城は一度は取り壊しの運命に置かれながらも、市民たちの努力によってその危機を乗り越えてきました。
そんな松本城が松本の宝から国の宝となり、そしていずれ世界の宝となることを願います。
最後に
松本城は400年以上も前につくられ、270年間に23人もの城主がいました。
その城主たちの様々な人生が実際にそこにあったのだと思うと、松本城が単なる歴史的に重要な建造物だけでなく、もっと身近な存在に感じられるようになりました。
きっと23人の城主たちやまわりの人々も、今の私たち同様、泣いたり笑ったり、怒ったり時には冗談も言ったりして、生き生きとした日常がそこにはあったのでしょう。
私は歴史にはあまり興味を持っている方ではなかったですが、今回23人の城主を通して松本城のことを学んで、もっと松本城のことが好きになりました。
もし松本城に行かれる場合、城内にはボランティアで案内をしてくれるグループがあります。
時間に余裕があればボランティアスタッフに案内してもらうと、パンフレットにはのっていない興味深い話が聞けたりするので、ぜひお勧めです。
そういう話の中に、昔の人々の息づかいを感じたり、思わぬ発見があったりするかもしれません。
詳しくは下記↓の松本城管理事務所のサイトに案内がのっています。
今回、松本市教育委員会が発行している「わたしたちの松本城」と松本城管理事務所が運営しているサイトを参考にさせていただきました。
松本城管理事務所のサイトはhttp://www.matsumoto-castle.jpです。
また「わたしたちの松本城」はお城の売店に売っています。イラストや写真が多くのっていて、子供さんにもわかりやすく、とても読みやすい本です。
松本城に行かれた際は、ぜひ手にとって見てください。